探索日:2025年3月13日
黒谷の蛇紋岩採掘跡探索後は、金山鉱山跡の探索に向かいます。

秩父市は黒谷の蛇紋岩採掘跡探索
探索日:2025年3月13日
秩父の和銅遺跡再訪後は、近くに位置する黒谷の蛇紋岩採掘跡を探索します。
黒谷の蛇紋岩採掘跡とは
黒谷の蛇紋岩採掘跡は埼玉県立自然の博物館研究報告の『国会議事堂の蛇紋岩石材産地の特定―秩...
ちなみに金山鉱山跡には以前も訪れており再訪になります。

秩父市の金山鉱山跡探索
探索日:2021年5月15日
和銅採掘遺跡の見物後は、その近くにある金山鉱山(かなやまこうざん)の探索に向かいます。
金山鉱山はいくつかの金を採掘した坑道跡が残っており、秩父市の和銅保存会のサイトには現在ハイキングルート...
金山鉱山跡ですが、こちらは金山(かなやま)鉱山と読みます。
そのため金を採掘していたわけではなく、銅を採掘していた鉱山跡になります。
こちらは採掘していた時代が武田信玄時代から江戸時代に入ってからの様で、約500年から300年前の物とされています。
さて、金山鉱山探索ですが、蛇紋岩採掘跡からは美の山観光道路を歩いて金山鉱山跡へと向かいます。
道路を歩いていると路肩に蛇紋岩の塊が落ちています。
道路脇を見ると法面の脇に蛇紋岩の露頭が見えます。
この付近も先の蛇紋岩採掘跡から続く、蛇紋岩地帯の様です。

しばらく歩いて金山鉱山の入口へ。

ここは廃道扱いなのか、案内板も意図的に切り取られています。

道は残っているので、ここから下って金山鉱山方面に向かいます。

道を下ると直ぐに一つ目の坑道が出てきます。

坑口脇には動物の生態調査と思われるカメラが有りました。
きっと私が坑道を出入りする様子が映ってしまいましたね。

坑口付近の様子。
断層?みたいなのが見えますが、ここに銅が有ったのでしょうか。

さて坑道ですが、坑口付近は鉱脈が幾つか有ったのか、数メートル掘り込まれた場所が数か所残ります。


一番左がメイン坑道で奥に続いているので、そちらに入ってみます。

坑道に入ると左側に分岐が有りましたが、3メートル程しか掘っておらず。

メイン坑道を進みます。
メイン坑道は直線が少し続いた後、右側にカーブしています。

カーブ先も続いているのかと思ったらすぐに行き止まり。


余り良い鉱脈では無かったようです。
行き止まり付近には石英脈と晶洞が有りました。
しっかりと確認はしませんでしたが、よく探せば水晶が有ったかもです。

この坑道内の動画は以下のYouTubeからどうぞ。
一つ目の坑道の探索が終わったので、お次の坑道を目指します。
移動途中に怪しい窪み。

露天掘りの跡か、坑道の崩落した跡か。
いずれにせよ人為的に何かが行われた跡の様です。

少し移動して2目の坑口に到着。

こちらも坑口前にカメラが設置されています。
設置者はラベルから『秩父の環境を考える会』との事です。

さて坑道内探索です。
すこし左右に曲がりつつも、分岐は見当たらずまっすぐに掘られています。


一部壁面が崩落した箇所も。

この坑道は所々コウモリがいます。

先へ進みます。

金属鉱物を含んだ水が染み出ているようで、錆びた鍾乳石の様な物も出来ています。

さらに先へ進みます。

ロウソクでも立てたのか、壁面には物を置くにはちょうど良い窪みも作られています。

そして行き止まり。
先ほどの坑道より少し長いですが、この坑道もそれほど深くはないですね。

最奥には数匹のコウモリが固まっていました。

こちらの坑道内の動画は以下のYouTubeからどうぞ。
2つ目の坑道のチェックも終わったのでお次は3つ目の坑道へ。

こちらも坑道脇にはカメラが設置されています。

さて坑道内へ。
こちらは少し地質が脆いのか、壁面が崩れており、足元には崩れた石が積もっています。

坑道は左にカーブしています。

カーブの先は・・・。

行き止まり。
今回探索した坑道の中で一番短いですね。

こちらの坑道内の動画は以下のYouTubeからどうぞ。
というわけで開口している3つの坑道の探索終了。
どの坑道もしっかりしており、ちょっと探検するにはちょうど良い坑道でした。
坑道探索後は登山道を道なりに下って「和銅製錬所跡」へ。
ここは先ほど探索した坑道で掘られた銅鉱石を製錬した跡との事です。



和銅製錬所跡の看板

和銅製錬所跡
この製錬所跡には、選鉱所、鋳型、溶鉱炉破片、鋳銅製仏像、古式排煙管や砕かれた鉱石・製錬時の際の鍰が発見され、銅精錬所跡として昭和31年3月市史跡として指定された。
この付近に現在も残る5か所8本の鉱坑および埋没・決壊した数本の鉱坑は、横掘坑である。
掘進は火薬使用で無く全部ノミによって進められたもので、その風化度から300年から500年前と推定される。しかし、この横堀坑跡は、歴史所の年号である和銅と関係はない。
こちらの案内番には、1号から8号までの坑道跡と6ヶ所の未復元の坑道が描かれています。
今回は登山道脇の3つの坑道しか確認できませんでしたが、一度調査が行われているようなので、どこかで資料を入手して他の坑道も探索も行ってみたいです。

もう一つの黒谷の銅精錬所跡の看板

市指定史跡
黒谷の銅精錬所跡
市場に名高い和銅遺跡は、元明天皇の慶雲5年(和銅元年)正月秩父から和銅を献じられ、天皇は非常にお喜びになり、同年十一月を和銅と改元された事は「日本書紀」に明記されている。
和銅産出の場所は秩父地方の相当広い範囲に渡るものと考えられるが、和銅にちなむ地名の数多いのも、この黒谷の土地が有力な一拠点を示すものである。
この製錬所跡も、金山と呼ばれる山塊の中腹にあり、その一連の遺跡である。
今も山中には古い選鉱場や、鉱石の破片、鍰が散乱埋没している。
和銅製錬所跡を後にして山道を下ります。

そのまま民家脇に出て、和銅黒谷駅まで歩いてゴール。

和銅黒谷駅に着いたら、丁度蒸気機関車がやってきました。

さて、探索後にこの金山遺跡の資料を調べていたらいくつかの資料が見つかりました。
1つめは『武蔵秩父郡和銅の遺趾』。こちらには以下の記載が有りました。
武蔵秩父郡和銅の遺趾
金山鉱山が何時頃から開鉱したかについては今日まだ確かな資料が発見されていないので断定は出来ないが、とにかく同地は和銅山の東隣に位し、和銅山が和銅沢の和銅鉱脈二本の採掘のみで終ったのに対し、金山においてはその鉱脈は全域に亘って分布し、その穿坑の跡は至るところに見られ、これが廃石「ズリ」は各所に沢山棄てられて自然扇状地を形成し、これに樹木が成育して山の裾のような模様をなしている。
しかし一度鍬を入れれば土質が異り、下は全く廃石のみであるが、この中からしばしば縄文土器や熔鉱炉の破片等が発見される。また、この地からも沢には自然銅が転石となって見出されることは上述の通りである。このためその採掘の始めは、和銅山に引続いて行われていたものであろう。
しかし、その採掘は継続せず、廃棄されたり復興したりして幾度か断続していたようである。
この後、戦国期に武田氏が甲州からこの方面の開発にその手を延ばすに及んで、その採掘は、また、盛んに行われるようになったらしい。それは金山の頂きに近く設けられている数個の旧坑が何れも三~四百年程の風化を示しており、また、山中の各所から発見される煙管の雁首・青瓷の破片・太田口氏発見の虚空蔵菩薩寺、いずれもこの頃から徳川初期にかけてのものである。
このため、金山の開発はその期において特に進んだのであろう。
製錬所趾は、今日一個所だけ発見されているが、同山には鉄の多量に発見されるところは所々にあるので、将来は更に多くの遺趾が見出されることであろう。
この金山銅山はむかしの史跡であるばかりでなく、山中には良質の銅鉱がなお多量に存在するであろうことは、太田口氏を始め鉱山専門家の同様に考察しているところである。このため、今後この山中において良鉱脈が発見され、再びその開発が始められるようになったならば、地下に眠れる富が国家再建のために役立つばかりでなく、山上より崩壊の土砂のために深く地中に没している古代の史跡もその面影を現わすようになるであろう。
2つ目は『原谷村誌』。こちらには以下の記載が有りました。
金山採掘跡
ふるさと歩道を黒谷駅から瑞岩寺方面に約二十分、更に金山区内で標識「和銅精錬所跡」方面に山道をたどること二十分あまりで、秩父市の史跡に指定された「黒谷の精錬所跡」にいたる。
地元では古くから「金穴」といわれ、地形は尾根がほぼ東西にはしり、その南斜面の硬い蛇紋岩の山肌と沢川を挟んだ辺に五箇所八本の鉱坑と埋没・欠壊した数本の鉱坑跡及び露天跡が残っている。更に銅沢川わきには精錬所跡もある。精錬所跡では、選鉱所・鋳型・熔鉱炉破片・鋳銅製仏像・古式煙管・砕かれた鉱石の・製錬の際のからみなどが発見されている。
これらの遺跡は何時頃のものか確かな資料は発見されていないが、慶雲五年(七〇八年)日本で初めて銅鉱脈が発見された和銅山(祝山)和銅採掘が終わった頃、ポスト和銅山として周辺の山々が探索されたことは充分想像されるところである。そうした折におそらく金山の樹木が多いことや、和銅沢の水の渋味などから丹念に探索がおこなわれた結果銅を含んだ鉱物が発見され、開発が始まったものとおもわれる。
それはかつての廃石の中から時代の古さを物語る縄文式土器の破片や石製の石鏃などが見つかっていることからもうなずけることである。しかし採掘は継続せず、中止したり、また再開したり度断したようである。その後戦国時代に武田氏の鉱区となり、その採掘が盛んにおこなわれるようになったらしい。
それは尾根近くの数個の鉱坑が三~五百年の風化を示しており、また山中から発見された鋳銅製の仏像・古式煙管首などはいずれこの頃から徳川初期にかけてのものであることからも間違いないものとおもわれる。
金山に残る鉱坑は横鉱が殆どで約一・五米、横一・二~一・五米程度、奥行きは鉱坑によって異なり数米のものから埋没したものでは四十八米あったといわれるものまである。掘削は火薬は使用せず全部ノミによって進められたものといわれ、当時の掘削作業の困難さがしのばれる。
金山の銅鉱は、廃石の中らから発見された鉱物から推定するところ、殆ど硫化銅で、銅として八%程度、中には良いもので三十%を越す純度の鉱物も発見されている。
銅精錬所跡は熔鉱炉跡鋳型跡からみ置き場跡からなり、現在周囲を囲み、遺跡として保存されている。
金山地区は当時農業を主とした戸数の少ない所であったと想されるが、銅鉱採掘の際は基地としての役目をはたし、最盛期には鉱夫と近郷近在からの見物客で、大変賑わったと伝えられている。
これらの資料を見るとかなり古くから採掘が行われていたことや、山中に複数の遺物や採掘の痕跡が残されていることが分かります。
さらには埋没した坑道には48メートルの深さが有った物も存在したとの事で、今回探索した以外の行動調査も引き続き行っていきたいです。
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