吉見町の岩窟ホテル

吉見町

探索日:2024年2月15日

この日は東松山から吉見町にかけてを探索します。
まずは東松山駅からスタートまずは吉見百穴にほど近い、岩窟ホテルを目指します。

 

巌窟ホテルとは

岩窟ホテルとは当時の埼玉県比企郡吉見村根古屋(現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見)の北西斜面にある人の手により掘られた建物状の洞窟です。岩室観音堂の隣に位置しています。
正式名称は『巌窟ホテル高荘館』。

岩窟ホテルはこの地の所有者である高橋峰吉氏(峯吉表記の資料も有り)により、21年間をかけて掘られたものです。そもそもがホテルでは無く「岩窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」をなったそうで、いつの間にか「岩窟ホテル」として報道されてしまったそうです。そのため、建物状の洞窟ですが実際に宿泊を行う設備などは有りませんでした。

高橋峰吉氏は安政5年生まれで、子ども時代に穴倉の中で野イチゴが腐敗発酵し、アルコールの香りを放っているのを発見し、子供心に醸造用冷蔵庫を作ろうと思い立ったのが当初のきっかけだったとの事です。しかし、読み書きは出来るものの建築や物理学などは学習しておらずその時は断念をしたそうです。
しかし、子供の時の思いや穴倉の作成について忘れる事が出来ず、46歳となった明治37年6月に新しい発想として巌窟を掘る事を思いつきました。それから亡くなる大正14年8月に至る21年間、ほぼ毎日ノミとタガネを基本とした手作業で巌窟をり続けました。

高橋峰吉氏の亡くなった後、岩窟ホテルの掘削作業は中断されたものの、息子の泰次氏が内部の改修や掘削を行いました。

岩窟ホテルの造りは高橋峰吉氏による当初の計画だと、間口23メートル、3階建てで、親子3代150年の期間が必要な程の規模だったそうです。

内部の造りとして大広間や正面ホール、2階へ続く階段が有り、花瓶、棚、置物台、テーブルなどは全て掘り込んでおり、根気強く苦心して作られました。

外部は当時漆喰で塗られ、唐破風やアーチ、柱列のような模様が描かれていました。

 

こちらは当初の岩窟ホテルのデザイン図。

明治末期から大正初期にかけては、竹田宮・北白川宮・朝香宮・伏見宮などの皇族が訪れた他、ロンドンタイムズ紙にも掲載され、岩窟ホテルは広く国内外に知られました。
巌窟内の温度は四季を通じて18度から19度と一定で、夏は涼しく冬は暖かかったとの事です。

その後は台風の被害などで崩落し、昭和62年に閉鎖されました。

また、内部は周囲の地下軍事基地とも繋がっているようで、戦中に吉見百穴と巌窟ホテルの下に縦横の横穴を掘り、地下工場として使用したとの記録が有ります。Youtubeや廃墟系のブログでは、そちらから内部探検を行っている方もいるようですが、私の守備範囲外なので割愛です。

当時のパンフレットの岩窟ホテルの平面図です。

参考資料:『吉見町史 下巻』『バラック浄土』『建築 (164)』『建築 (174)』

 

巌窟ホテル探索

さて岩窟ホテルの探索です。
最寄りの駅である東松山駅から東に歩くこと約30分。
市野川付近までくると、対岸に吉見百穴と岩窟ホテルらしきものが見えてきます。

 

市野川を越えてすぐ山を見ると、柵に囲われていますが、岩窟ホテルを見る事が出来ます。

 

こちらは正門付近。

 

1階部分と2階の窓らしき穴が掘られています。

 

 

そして岩窟ホテルの向かいには、『岩窟』なる麺屋があります。

 

近寄ってみると、岩窟ホテルの資料などが有るとの事なのでお邪魔してみます。

 

店内には岩窟ホテルの説明が。

説明には以下のように書かれていました。

岩窟ホテル
「巌窟ホテル高荘館」は、東武東上線東松山駅から歩いて20分ほどのところにある。
西洋建築を模し断崖を彫って造られたこの建造物は、そのほとんどが高橋峰吉という安政5年(1858) 生まれの農夫のノミ1本により彫り上げられた。建物の外観は3階建ての体裁をとっているが、内側は不完全な2階造りで、彼はこの建造物の完成には3代150年を要すると考えていた。最初の計画では、中央に大広間を持つ、完全に左右対称形の館を考えていたようだが、 湧水や岩盤の関係で、今に残るようなややバランスのわるい形のものになったという。 おもしろいのは、正面向かって左側の部屋で、ここには化学実験台や研究台、電話室など当時としてはきわめてハイカラな設備が彫られている。彼はこの部屋を化学実験室と呼び、物理化学、天文学を研究する部屋であると説明していたという。中央の大広間は最も念入りに仕上げられた部屋で、さながら貴賓室のおもむきがある。 実際、大正時代の初めには宮様を迎え、その栄誉を記念して一般の立ち入りを禁止していた。当時は見物客も多く押し寄せ、整理券を発行するほどでその評判はロンドンタイムスにも報じられたといわれている。
現在はほとんど訪れる人もなく、ごくまれに地方新聞や建築雑誌の片隅に紹介されるにすぎない。

峰吉がこの広大な計画を実行に移したのは明治37年、彼が46歳の年である。そして死ぬまでの21年間を彼はこの造築に捧げた。「巌窟ホテル」の名は、巌窟掘ってると人々が言ったのがなまったもので、彼はこんな周囲の冷笑も心にかけなかったという。教育というものをほとんど受ける機会のなかった峰吉が、どんな理由からこの西洋風建築を彫ったのか正確にはわからない。しかし「吉見百穴」として有名な古代遺跡がすぐ近くにあったことが 彼の発想にあるヒントを与えていたようだ。

大正13年、ここを訪れた建築家佐藤武夫に峰吉は、その目的を次のように語った。「功利を意図せず、ただ純粋な芸術的創造欲の満足と建築の最も合理的にして完全な範を永く後世の人たちに示すところにある」

 

説明以外にも当時の写真などが飾られています。

 

こちらは西洋建築風にペイントされています。
今の岩肌からは想像できないほど、しっかり装飾されていますね。

 

これを見ると確かにホテルと言われてもおかしくない規模ですね。

 

岩窟ホテルを掘った際の金槌やノミやタガネ類。
たったこれだけの器具で、あの岩山を掘ったのはどれだけの労力と時間がかかったことか。

麺屋『岩窟』では無料で展示品を見る事が出来るのですが、手ぶらで出るのも何なのでお菓子類を少々購入してお店を出ます。

 

岩窟ホテルの脇には松山城跡なる看板が。

岩窟ホテルが位置する岩場の上部には山城が残されているとの事です。
ただ今回は松山城を見学せずに先に進みます。

 

そんな松山城の看板脇には、封鎖されていますが大きな洞窟が。
この規模だと太平洋戦争中の地下軍需施設の一部だと思います。

 

噂によるとこの辺りの地下施設と岩窟ホテル内部が繋がっているらしいですが、これだけしっかり封鎖されていると入るのは無理そうですね。

 

お次はすぐ脇にある、岩室観音に向かいます。

吉見町の岩室観音
探索日:2024年2月15日 岩窟ホテルを見た後は、そのお隣にある岩室観音を見に行きます。 岩室観音のお堂は高低差のある場所にて、足場の柱を固定してその上にお堂を建てた懸造という形式。江戸時代の物としては珍しいとの事です...

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