吉見町の岩窟ホテル

吉見町

探索日:2024年2月15日

この日は東松山から吉見町にかけてを探索します。
まずは東松山駅からスタートまずは吉見百穴にほど近い、岩窟ホテルを目指します。

 

東松山駅から東に歩くこと約30分。
市野川付近までくると、対岸に吉見百穴と岩窟ホテルらしきものが見えてきます。

 

市野川を越えてすぐ山を見ると、柵に囲われていますが、岩窟ホテルを見る事が出来ます。

 

こちらは正門付近。

 

1階部分と2階の窓らしき穴が掘られています。

 

 

そして岩窟ホテルの向かいには、『岩窟』なる麺屋があります。

 

近寄ってみると、岩窟ホテルの資料などが有るとの事なのでお邪魔してみます。

 

店内には岩窟ホテルの説明が。

説明には以下のように書かれていました。

岩窟ホテル
「巌窟ホテル高荘館」は、東武東上線東松山駅から歩いて20分ほどのところにある。
西洋建築を模し断崖を彫って造られたこの建造物は、そのほとんどが高橋峰吉という安政5年(1858) 生まれの農夫のノミ1本により彫り上げられた。建物の外観は3階建ての体裁をとっているが、内側は不完全な2階造りで、彼はこの建造物の完成には3代150年を要すると考えていた。最初の計画では、中央に大広間を持つ、完全に左右対称形の館を考えていたようだが、 湧水や岩盤の関係で、今に残るようなややバランスのわるい形のものになったという。 おもしろいのは、正面向かって左側の部屋で、ここには化学実験台や研究台、電話室など当時としてはきわめてハイカラな設備が彫られている。彼はこの部屋を化学実験室と呼び、物理化学、天文学を研究する部屋であると説明していたという。

中央の大広間は最も念入りに仕上げられた部屋で、さながら貴賓室のおもむきがある。 実際、大正時代の初めには宮様を迎え、その栄誉を記念して一般の立ち入りを禁止していた。当時は見物客も多く押し寄せ、整理券を発行するほどでその評判はロンドンタイムスにも報じられたといわれている。
現在はほとんど訪れる人もなく、ごくまれに地方新聞や建築雑誌の片隅に紹介されるにすぎない。

峰吉がこの広大な計画を実行に移したのは明治37年、彼が46歳の年である。そして死ぬまでの21年間を彼はこの造築に捧げた。「巌窟ホテル」の名は、巌窟掘ってると人々が言ったのがなまったもので、彼はこんな周囲の冷笑も心にかけなかったという。教育というものをほとんど受ける機会のなかった峰吉が、どんな理由からこの西洋風建築を彫ったのか正確にはわからない。しかし「吉見百穴」として有名な古代遺跡がすぐ近くにあったことが 彼の発想にあるヒントを与えていたようだ。

大正13年、ここを訪れた建築家佐藤武夫に峰吉は、その目的を次のように語った。「功利を意図せず、ただ純粋な芸術的創造欲の満足と建築の最も合理的にして完全な範を永く後世の人たちに示すところにある」

 

説明以外にも当時の写真などが飾られています。

 

こちらは西洋建築風にペイントされています。
今の岩肌からは想像できないほど、しっかり装飾されていますね。

 

これを見ると確かにホテルと言われてもおかしくない規模ですね。

 

岩窟ホテルを掘った際の金槌やノミやタガネ類。
たったこれだけの器具で、あの岩山を掘ったのはどれだけの労力と時間がかかったことか。

麺屋『岩窟』では無料で展示品を見る事が出来るのですが、手ぶらで出るのも何なのでお菓子類を少々購入してお店を出ます。

 

岩窟ホテルの脇には松山城跡なる看板が。

岩窟ホテルが位置する岩場の上部には山城が残されているとの事です。
ただ今回は松山城を見学せずに先に進みます。

 

そんな松山城の看板脇には、封鎖されていますが大きな洞窟が。
この規模だと太平洋戦争中の地下軍需施設の一部だと思います。

 

噂によるとこの辺りの地下施設と岩窟ホテル内部が繋がっているらしいですが、これだけしっかり封鎖されていると入るのは無理そうですね。

 

お次はすぐ脇にある、岩室観音に向かいます。

吉見町の岩室観音
探索日:2024年2月15日 岩窟ホテルを見た後は、そのお隣にある岩室観音を見に行きます。 岩室観音のお堂は高低差のある場所にて、足場の柱を固定してその上にお堂を建てた懸造という形式。江戸時代の物としては珍しいとの事です...

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