探索日:2023年5月26日
足尾銅山の宇都野火薬庫跡探後はさらに先に進んで、小滝エリアを目指します。
庚申川沿いを進んでいくと直ぐに庚申ダムが出てきます。
庚申ダムは水力発電用のダムとの事です。
ダムの湖面の様子。
緑の湖面が綺麗ですね。
ボートを浮かべてトラウトフィッシングなどしてみたいです。
こちらは導水路からの水が流れ出ている様子。
発電用に、間藤付近の神子内川と松木川からの水を引き入れているとの事。
庚申ダムを後に先に進むと、山の斜面にトンネル状の怪しい施設。
鉱山関係施設かと思って近寄ってみたら、足尾地震観測施設なる地震観測所でした。
地震観測所からしばらく歩くと、路上や斜面に動く多数の動物。
よく見るとニホンザルの群れがいます。
見える範囲で十数匹。
こちらは徒歩。刺激して襲われるのも怖いので、距離を取って警戒しつつ進みます。
サルも遠巻きにこちらの様子を伺っています。
暫くサルの様子を見ていたら、沢を渡る排水パイプを使って対岸に移動してくれました。
サルたちに別れを告げてしばらくすると、右手側の斜面に石積みやコンクリートの遺構跡などが出てきます。
ここがどうやら足尾銅山の小滝精練所と選鉱所の跡との事。
案内板には「小滝坑が開坑され、この地に精錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。往時のレンガの跡が偲ばれる。」との記載。
近くには小滝選鉱所稼働時の様子も掲示されています。
小滝選鉱所の反対側には夜半沢の社宅郡が有ったそうです。
小滝坑閉山前の小滝地区の様子の案内板。
案内板には当時の説明の他、施設や社宅の跡の位置図が示されています。
案内板には以下のように書かれています。
足尾銅山の三山(坑)の一つであった小滝の始まりは、明治18年(1885)に休坑跡の開発に着視したところ、すぐに富鉱を発見したので翌年には選鉱所と精錬所を設け、次いで坑夫飯場も各所に建て、道路を開削し鉄道馬車を通すなど生産機能を拡大してからの事である。さらに病院や学校も建て町家が並ぶようになり、大正5年(1816)の最盛期には一万余人の人口となった。
その時の「商業家便覧」によると数件の料理屋や芸奴屋もあり、坑夫たちの格好の場として賑わったことがうかがえる。しかし徐々に経営の合理化がすすめられ、遂に小滝坑は昭和29年(1954)に閉坑され銅山の施設は一緒に撤収となり、小滝は僅か数戸を残し廃墟同然となった。
今は、昔日の夢の跡として「ここに小滝の里ありき」の大石碑が建てられたが、苔むした石垣の上から ”山晴れ 水澄む 我等の小滝・・・„の歌が坑夫の声高らかに聞こえてくるようである。
位置図には、畑尾、爺ヶ沢、南夜半沢、北夜半沢などの地名が見られます。
施設には坑夫の社宅、所員の社宅、駐在所、小滝小学校、倶楽部、申武館、トウフ市場、理髪所、組合事務所、小滝会館、病院、浴場など多くの施設が有ったことが分かります。
また、索道跡やガソリンカーの軌道の記載も見られます。
小滝付近の遺構も見ていきましょう。
道路沿いには立派な石段。
こちらの折れ曲がった石段は青葉寮なる寮へと繋がる石段との事。
石段を登ると寮の基礎らしき物が出てきます。
その奥にはレンガ造りの遺構が有ります。
回り込んでみると2つの窪みが有ります。
窯とかの跡でしょうか。
こちらはコンクリート造りの遺構。
斜面の上を眺めると、何かの基礎らしき石垣が見えます。
この付近の遺構を上から見下ろしたところ。
鉱盛橋跡。
今は隣に新しい橋が架かっていますが、かつてはここに橋が有ったようです。
橋から見た庚申川の様子。
水が綺麗で渓流釣りしたくなりますね。
橋を渡った先には、坑夫の浴場跡が有ります。
浴槽の遺構。
二重に浴槽になっていたようです。
お次はこの先の小滝坑を見に行きます。
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