探索日:2023年5月26日
足尾銅山の小滝坑と銀山平の社宅跡を見た後は、備前楯山を一周して足尾銅山の本山坑を見に行きます。
備前楯山の登山道を越えてからは道なりに下っていきます。
脇には備前楯山から繋がる尾根。
あの岩山付近にも江戸時代から明治にかけての多くの採掘跡が残っているらしいです。
しばらく歩くと鷹の巣坑の案内が。
案内には以下のように書かれています。
対岸の中腹に有った古河最初の直営坑
足尾銅山は、明治10年(1877年)に古川市兵衛が経営するまでは、下稼仁(山師)の請負で採掘していた。当時38人の下稼人が70余の坑道を稼働させていたが、市兵衛は古河の直営坑を進め、同13年に休止していた鷹の巣坑の開発に着手し、草倉銅山(新潟)から精鋭の坑夫を投入するとともに、採掘方法に発破を利用し直利(富鉱)を発見、翌年には鷹の巣坑の権利を下稼人から買収し直営坑をした。
更に新しい技術と設備を次々に導入し、足尾銅山の拠点となる主坑の開発に成功し日本一の銅山となっていった。
ちなみに少し前にツイッターにて鷹の巣坑道を見つけた人たちが居ましたね。
鷹の巣坑を後に歩いていくと、石垣が出てきます。
この辺りから本山坑の集落跡の様です。
古河市兵衛が足尾銅山の経営を行う以前の明治6年に、山師の斉藤八郎なるものが立てた水神宮の碑があるとの事。
この奥らしいのですが、今回は面倒なので行かず。
さらに下ると狸掘り跡の案内。
案内には「江戸時代の鉱脈の掘り方は自分だけが入れる狸穴に似た『狸掘り』であった。足尾銅山でも対岸の沢沿いに多く見られる。」と書いてあります。
こちらの沢沿いに狸掘り跡が多数残っているとの事。
機会が有ったら探索してみたいですね。
こちらは本山の様子や、斎藤信淵なる鉱物学者の案内。
本山は本口坑、鷹の巣坑の開削に続き、明治17年(1884)に有木坑(本山坑)が開発されると同時に、鉱業所、選鉱所、精錬所、医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられたりして、名実と共に足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。
明治40年に本山の労働争議をきっかけに、鉱業所が掛水に移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山にはその時138世帯477人(10年前の昭和38年4月には290世帯、1167人)が住んでいましたが、その年の8月についに無人となりました。
今は、鉱山神社がぽつりと ”つわものどもが夢の跡„ を見守っているだけとなりました。
こちらは関東ふれあいの道の足尾銅山の案内。
そしてこちらが足尾銅山の本山坑の入り口。
普段は門が閉じられていると聞きましたが、今日は開いています。
しかも本山坑の坑口が開いており、中から明かりらしきものが見えています。
カメラのズームの限界ですが、坑口が開いていますね。
ちょうど関係者らしき方が居たので声をかけたら、敷地内に入らなければ写真を撮って良いとの事だったので、関係者さん立ち合いのもと敷地ギリギリの場所から撮影させてもらえました。
話を聞いたらやはり普段は本山坑は閉鎖しているとの事。
ちなみにこの日はなんで開いていたかを聞いてみましたが、秘密との事でした。
理由はともかく、たまたまとはいえ坑口が開いている日に来てラッキーでした。
坑口の反対側には発電所だかホッパーだかの遺構らしきものも見えます。
遺構は敷地内にあるので、こちらも敷地外からの撮影で。
本山坑を見る事が出来たので、お次は足尾の中心地付近の遺構を探索します。
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